
たしかにそうかもしれません。
しかし、あなたが「どこまでも成長していきたい」「長期的に充実した人生を送りたい」と願うのであれば、なるべく早い段階でその考えは捨てるべきかもしれません。
他者との勝ち負けにこだわって到達できるレベルには限界があります。

本記事のポイント
- ライバル心が苦しみを生む
- ライバル心が「安定した行動」を阻害する
- ライバルがいなくなったあとに待つのは虚無の世界
- 『自分がライバル』とも違う目標設定の仕方
- 「他燃型」は短期戦、「自燃型」は長期戦に向いている
※ちなみに本記事は、「人との切磋琢磨サイコー!」「ライバルとの戦い楽しい!」という方にとっては必要のない記事なので、このままページを閉じていただければと思います(笑)
本記事の内容
ライバルはいらない|自分を制し、燃えずに闘うべし
他人に対してライバル心を燃やす、というのはある意味では非常に人間らしい感情かもしれません。基本的に人というのは、他人との比較によって「自分」という存在を感じることができるからです。
今の自分がどのような状態なのかを知ることは、「他人」という存在無くしては不可能です。
もし、他人がいなかったら、美醜も優劣もありませんしね(^_^;)(美人が美人だともてはやされるのは、その本人がすごいのではなく、紛れもなくその他大勢の「普通以下の人間」のおかげです 笑)
ライバル心は時に人を醜くする
我々はかなり早い段階から、地域や学校という枠組みの中で、他人との比較にさらされながら生きてきているわけですが、確かに自分が他の人間より劣っていることは悔しく感じますし、その差を埋めようという強い思いが我々に行動力を与えてくれます。
特に、自分のレベルと近い人間に対しては、「なんとか頑張って勝ちたい」という思いが芽生えてしまうものです。
そういった感情を「ライバル心」と呼びますが、その思いは我々を努力させる方向に導く反面、非情に醜い感情を誘発する力を持っています。
本来であれば、努力というものは本来「自分自身を成長させるため」にするものだと思いますが、いつのまにかそれが「ライバルに勝つこと」にすり替わっていってしまうからです。
自分のレベルを上げることよりも、相手に勝つことが目的になれば、もはやそこに自己成長はありません。
むしろ、他人を引き下げようとしたり、蹴落とそうとしたりする思いや行動は、自分の人間性を下げているとさえ言えるでしょう。
もちろん、お互い切磋琢磨して高め合う「良きライバル」という次元もあるとは思いますが、そうなれる人は恐らく一握りの非常に精神性の高い人だけです。
普通の人間であれば、どんなに爽やかさを演じたところで、相手の勝利を手放しで喜べない思いが、心の奥底に必ずあるはずです。
ライバルと比較する度に心が乱れ、行動が疎かになる
ライバルと競い合うということは、当然、自分が相手よりも劣っていると感じさせられる場面に数多く出会います。なんとも悔しいやら情けないやら。。
そのような精神状態で、長期的に結果を出し続けるために必要な「着実な積み重ね」が出来るかというと、全くそんなことはありませんよね?
ひどい場合は、ショックで立ち直れないなんてことにもなりかねません。
ライバルがいるということは、すごく悔しい思いをしたり、逆に嬉しかったり、ヤル気を失ったり、猛烈に頑張れたり、と色々あります。
それによってその都度、激しい感情のアップダウンにさらされることになり、肝心の「行動の量と質」にも大きな悪影響が出てしまうのです。
ライバル不在|他人との比較から完全に解き放たれる生き方
これは結構特殊な考えなので、共感していただけるかは微妙なのですが、私はある時から他人をライバル視することをやめました。
他人は自分と比較して喜んだり、凹んだりするための存在ではなく、「学びの対象」として見ています。
なぜ他人と競う事をやめたのかというと、持って生まれた才能や肉体、美醜、成長過程で培ってきたメンタル、価値観、、、あらゆるものが人それぞれ全く違うからです。
つまり、そもそもの前提条件が違うのに、誰かと比較して一喜一憂するのはナンセンスだと考えている、ということです。
▼詳しくはこちらの記事を御覧ください。
ライバルと競って良いのは最初だけ|トップに立ったその先に待つもの
例えば、あなたが仮に数々のライバルに打ち勝ち、トップに立ったとします。もはやあなたに勝てる人間はいません。
そうなった時に、あなたは一体どうなってしまうのでしょうか。
ライバルありきで行動してきた人間が、突然それを失ったら、その人はそれまでと変わらずに成長し続けられるでしょうか?
ライバル依存は虚無感を引き起こす
芸能界や音楽業界で飛ぶ鳥を落とす勢いで売れまくっている人間が、最終的に薬に手を出してしまうというニュースをよく目にします。
一般の人間からすれば、順風満帆だったはずの人間がなぜそんなに愚かなことをしてしまうのか、理解に苦しむところですが、それには明確な理由があります。
考えてみれば当たり前のことかもしれませんが、ライバルを行動のモチベーションする人は、逆に言うならば、それなしでは行動出来ない人、ということになります。
自分がまだ未熟な状態で、自分よりも格上の人間がたくさんいる間はいいでしょう。
しかし、もし順調に勝ち続けていけば、やがてライバルはいなくなります。
そこで、うまく考え方を変えることができれば良いですが、大抵の場合、その人間のは虚無感に苛まれるようになり、それ以上意欲的に行動していくことができなくなってしまうのです。
当然、本人は焦ります。やる気が湧いてこない状態で、どうやって今の地位を保てばいいんだ?、、と。
そのプレッシャーはかなりのものでしょう。上がっていくのは良いですが、落ちていくのは誰だってイヤですからね。
そうなった人全員がお酒や薬物に走るとは言いませんが、そう考えると、著名人のスキャンダルの理由も見えてくる気がしませんでしょうか?
ライバルがいなくても行動できるようにせよ
ちょっと話が飛躍し過ぎた感が否めないですが、、、
私は別に、ライバルと切磋琢磨するような生き方を完全に否定するつもりはありません。そのような生き方でも、心のバランスを上手く保ちながら充実した人生がおくれるのであれば、何も問題は無いと思います。
わたしは今回、他人と競い合う人生に疲れてしまった人に「もっと平和でより着実に進化できる生き方がある」ということをお伝えするためにこの記事を書こうと思いました。
ですから、ここからは私が推奨するライバル不要の生き方、「自燃型」の生き方についてお伝えしたいと思います。
他燃型から自燃型へ
何かしらの分野で成功したい、結果を出したい、となった時、多くの方が『外部刺激』を利用して自分を行動させようとします。
例えば、本記事のテーマでもあります「ライバル」という存在を作ってみたり、「有言実行」とばかりに周りに目標を宣言して自分を追い込んでみたり、自己啓発系のものに触れてみたり、、、 といった事です。
しかし、どの方法もその効果は「一過性」のものであり、長期的な成功に絶対に必要な「安定した行動」をもたらすことはありません。むしろ、それらの刺激に頼ってしまうと、非常に気持ちのアップダウンが激しくなり、時として全く行動できなくなってしまうリスクもあります。
ですので、ヌンヌンブログでは「自燃型」という生き方をオススメしています。「自燃型」とは文字通り、外部の力に頼らず、自分自身を「静かに燃やし」淡々と行動するスタンスのことです。
他記事に詳しく書いていますので、興味のある方はどうぞ(*^^*)▼
「自分がライバル!」とも違う考え方|成果主義を超えろ
よく、「他人はライバルではない、自分こそが最大のライバルだ!」という言葉があります。私もどちらかというとその方が賛成なのですが、ここではもう少し違う考え方をご紹介します。
自分がライバルだということは、「昨日までの自分を超えろ!」的な考え方ですよね。でもそうなってしまうと、人間には年齢と共に衰える能力もあるわけですから、結局他人をライバルにしているのと同じように、苦しい生き方になってしまうかなとも思うわけです。
そうではなくて、何かの成果を目標にするのではなく「自分がやると決めたことやれるかどうか」ということだけにフォーカスして生きていけばいいのではないかと。
この場合、生まれ持った才能も容姿も、他人、それこそライバルも、年齢による衰えさえも、一切関係なくなります。
もちろん、この場合でも、自分にとって「無茶な目標」を課してしまえば苦しいだけです。ですが、その都度「実現可能な範囲の行動目標」を設定するのであれば、一生涯に渡って心を大きく乱すことなく最大限成果を出しながら生きていくことが可能になります。
好きなことをやれば他人は関係ない
中には「ライバルがいないとつまらない」という人もいるかもしれません。しかし。誰かがいないとつまらない、充実感が得られないのは、その取り組んでいること自体が本質的には好きではないということです。
その行為そのものが本当に好きであれば、たった1人であっても楽しめるものです。
誰ともそれを共有せずに、何歳になっても、1人もくもくと楽器を楽しんだり、本を呼んだり、日記を書いたり、何かを収集したりしている人は、まさにそのような状態です。
なんか1人で寂しそうだな、、、、 というのは周りが思うことであって、本人としては十分過ぎるほどの幸福を感じることができているのです。
大成功を収めた後も輝き続ける人は、完全に自分基準で生きている|他人との比較はしない
大成功を収めた後、落ちぶれていく人がいる一方で、トップに立った後も向上心を忘れずに進み続ける人達がいます。
彼らは、圧倒的な実績を残し無敵状態であるにも関わらず、一切慢心することなく歩み続けるのですが、そのような方達にはある一つの共通点があります。
それは、雰囲気や発言が、非常に『ストイック』であるということです。
確実に自分のルールを持ち、ひたすら黙々と自分の基準で活動を続けている。
そこに、他人との比較やライバルの存在はありません。
そして、『ストイック』という言葉は、実は周りが勝手にそう表現するだけで、当の本人はそれが「当たり前」だと感じており、無理な感覚もなく、非常に安定した精神状態を維持しています。
まとめ|長期的視点に立った生き方
わたしはいつの頃からか、物事を「超長期的」に考えるようになり、それに伴って生き方も少しずつ変わってきました。「その時が良ければいい」という考えはもうありません。
なぜそうなったかというと、情熱に任せ、ひたすら他人との戦いに闘志を燃やし、時に苦しみながら、「ようやく何かを手に入れたと思ったら、そこには虚無感しか残らなかった」という経験を何度かしてきているからだと思います。
「なんだろうこの虚しさは、、」と。手に入れたものが、たとえ他人が羨むようなものであっても、本人としては只々むなしい。
その時は、なぜそうなるのかがわかりませんでしたが、時間が経ってから改めて色々なことを考えてきて、ようやく答えが見えてきました。
この記事に書いてるようなこともその一つです。
恐らく、まだ若く、目標に向って情熱的に生きている人には響かない内容だと思います。
しかしながら、ある程度色々な経験をしてきた末に、なんとなく生きる虚しさを感じている方にとっては、もしかしたら役に立つことがあるのではないか、と思い勢いに任せて執筆しました。
「人生100年時代」と言われていますが、できれば人生の後半まで充実感を持って生きていきたいものです。
