人類が誕生してから約400万年とも700万年とも言われています。
その歴史の中で、幾度となく争いは繰り返されてきました。もちろん戦争がなかった時代もあるとはいえ、常にわれわれの身近なところでは大小さまざまな争い事が日々起きています。
学校、職場、過程、地域、宗教、、、、 そういった枠組みの中で、「他者との確執」というものはかならずと言って良いほど存在するものなのです。
現代のネットの世界でも「アンチ」と呼ばれる存在がいたりしますし、匿名という特殊な環境のせいでしょうか、かなり醜い言葉を平気で他人に投げかける者も少なくありません。
本記事では、この人間ならではの「争い」というものはすべて、
「どこかに決められた正解がある」
という我々の「大いなる勘違い」が原因である、というお話をしたいと思います。
「それは正しい、それは間違いだ」という考え方から抜け出すことができれば、人生はおどろくほど平和なものになる、、、 かもしれません。。。
本記事の内容
人生に正解なんてない
世の中には「模範的な生き方」というものがあります。人とはこうあるべきだ、という「正解」のことです。
しかし、そういった「正解」というものは、国が変わればまったく違ってきますし、すべてはそれぞれが持つ「価値観次第」だと言えます。
「愛する異性は一人だけ」という我々の常識とは180度違う「一夫多妻制」が認められた国だってあります。
食に関しても、国や宗教が変われば正解も変わります。われわれが美味しい美味しいと食べている食肉も、「絶対に食べてはいけない」という”正解”を持ったまま一生を終える人達もいます。
食肉の話で言うならば、われわれは主に「牛、豚、鳥」を普段食しますが、犬は?猫は?となれば「そんなのかわいそう、、、!!」となるでしょう。
国によっては犬を食べる国もあります。しかし、それを知ってわれわれは、その人たちがまるで野蛮な民族であるかのように捉えます。しかし、どんな種類であっても、動物は動物です。
つまり「正解」というものの正体は、人間がそれぞれの価値観で「後から勝手に貼り付けたレッテル」である、ということになります。
戦争は「正解vs正解」「善vs善」
この流れで考えてみると、戦争というのが実は「正解vs正解」「善vs善」の戦いだということがわかるかと思います。
お互いが自分たちの考えを「正解」だと思っていますし、「善」だと考えているのです。自分たちが正解ならば、自動的に「相手にとっての正解が不正解」ということになってしまうということです。
このことが、本当の意味で理解されない限り、この世界から戦争というものがなくなることはない、と言えるでしょう。
「正解」は常に変わっていく|時代や価値観が変われば正解も変わる
「正解」というものが人間によって後付けされた”レッテル”である限り、それ自体が固定されることはなく、常にコロコロと変化してきます。
個人レベルで考えてもそうです。
「独身最高!!」「結婚するなんてありえない!」とあなたがもし思っていたとしても、何かのきっかけで家族を持つことの大切さに気付いたり、愛する人が突然現れたり、、となれば、その価値観が一瞬で変わる可能性だってあるのです。
それはつまり、その人にとっての「正解」が変わったということです。
天動説と地動説
毎日毎日、日は昇り沈んでいきます。なぜそのようになっているか、と聞かれれば、義務教育を受けたわれわれは「地球が回っているから」と答えると思います。
しかし、大昔には「天動説」が信じられており、誰もが「空が動いている」と考えていました。
天動説が「完璧な正解」だったところに、地動説が登場した瞬間の人々の反応を想像するのは、そんなに難しくありませんよね。
「は、、?何言ってんの?頭おかしいんじゃないの、、?」
となったはずです。
しかし、現代の人々の中で「天動説」を正解だと言う人はまずいません。事実は一つでも、人間が生み出す「正解」はどんどん変わっていくし、その種類は何通りもある、ということです。
成功法則にも正解なし
今現在私は、このブログを運営すると同時にTwitterもちょこちょこやるようになりましたが、そこには数多くの「正解」が飛び交っています。「成功するためにはこうすべきだ!」という様々な主張が、インフルエンサーを始めとする「成功者」から発信されているのです。
そして、「自分にとっての正解」と明らかに食い違う意見を見つけては、直接的、もしくは間接的(遠回し)に否定し合います。
しかし、その論争に「絶対的な正解」はありません。人が変われば正解も変わってしまうからです。
それが、本当の意味で理解されれば、リアルな世界はもちろんのこと、TwitterなどのSNSの世界も、もっと平和な空間になることでしょう。

相談されても答えなどない
みなさんも、これまでに家族や友人などから何かしらの相談を持ちかけられた経験はありますよね?私も時々受けることがあるのですが、その相談への私なりの答えはいつも同じです。
「とりあえずやってみれば」
その相談内容が極端に危険なものでない限り、そう言うしかないのです。
なぜなら、その人は当然「私」ではないわけですから、わたしにとっての正解が、どんぴしゃでその人にとっての正解になる、ということはまずないはずだからです。
自分にとっては「絶対に間違っている方法」であっても、その相談相手がその方法で大成功を収めることも十分ありえます。
なので、基本的に相談する相手が「こうしようと思っている」という話を聞いても、絶対に否定はしません。
せいぜい言えることと言えば、「おれだったらこうするけど。」という事だけです。
まとめ|より平和な人生を送るために
本記事では、「人生に正解はない」という”考え方”ついてお伝えしました。なぜ”考え方”という表現をするというと「人生に正解はない」という価値観さえもわたし固有の「正解」だからです。
「これが真実です」なんてことは、誰にも言えません。
なぜなら、究極的には、その人が「最後まで信じ切ったものが”真実”であり”正解”」だからです。
それに気付いてからというもの、私は他人に対して「こうするべきだ」という言い方をすることはなくなりました。
それは、私自身が争いを嫌う平和主義的な性格であることとも関係していますが、自説の正しさを主張すること自体が「バカバカしい」と思うようになったからです。
同じ世界にいるようで、実は一人一人が別々の世界で生きている。
そんな風に感じる、今日この頃です。
