
努力が大事だなんて綺麗事だよ。
そんな風に考えている方に読んでいただきたい記事です。
この記事では人生をゲームに例えています。
そして、人生における「運」には二種類あり、
●「どんなゲームが与えられるか」を決める運
●「ゲームがどのように展開していくか」を決める運
の2つがある、というお話をしたいと思います。
結論から言いますと、前者はどうにもなりません。
しかし、後者は自分の力でコントロールすることが可能です。
本記事の内容
- 「人生運ゲー」という後ろ向きな考え方から完全に脱却するための方法
- 因果の法則に則り、自分のチカラで運を呼び込んでいくための基本的な考え方
以上2つをご紹介します。
これらの考え方を身につけてしまえば、人と比較して嫉妬したり、落ち込んだりといったことがなくなり、常に前向きに人生という船の舵を切っていくことができるようになります。
本記事の内容
- 1 人生とはすべて思い込み|捉え方がすべて
- 2 恵まれないことを呪うのか、おいしいと思うのか
- 3 最悪な状態から逆転すれば“称賛の嵐”
- 4 「みんな別々のゲームをプレイしている」という考え方
- 5 異なるスポーツ同士で点数を競うかのうような無意味さ
- 6 自分が遊ぶゲームのプレイヤーは自分だけ
- 7 生まれた瞬間、みんな別々の違うゲームが与えられる
- 8 人生が運ゲーがどうかを決定付ける2つの思考|自責と他責
- 9 国のせい、会社のせい、上司のせい、は自分のせい
- 10 常識を破壊することで人生が変わるケース【実体験】
- 11 食事法に目覚め、常識を破壊し、すべてが変わる
- 12 あたらしい食事法によってタフで明るい人間に
- 13 まとめ|結局は各々勝手に生きればいい
人生とはすべて思い込み|捉え方がすべて
究極的には、「自分の人生がどんな人生なのか」を決められるのは自分しかいません。自分でクソだと思えばクソになるし、すばらしいと思えばそうなります。
例えば、少し離れたところで誰かがこちらを見ながらコソコソ話をしていることに気付いた場合、「クソ、なんか悪口でも言ってのか」と怒ることもできるし、逆に「お、またまた俺の噂をしてるな、、」とほくそえむこともできます。
実際には、そのコソコソ話の声は全く聞こえないので、その時点では会話の内容は不明です。
しかし、すでにその時点であなたの脳内では話の内容が決定され、感情に反応が起きています。
事実と認識は別物です。捉え方がマイナスなら最悪な気分になりますし、プラスならハッピーになるでしょう。
恵まれないことを呪うのか、おいしいと思うのか
我々は生まれてくる環境を選べません。
どの国に生まれて、どんな家族に囲まれるか、それは完全に「運」と言えるでしょう。
そして、その人が持つ才能や適正も選べません。ハンパじゃない音痴がプロの歌手になるのことは現実的ではありません。
しかし、家が金持ちだったり、容姿端麗だったり、才能があったりしたとしても、それだけで最高の人生になるとは限らない、というのもまた事実です。
むしろ、恵まれ過ぎたが故に、不幸になる人間もいます。
最悪な状態から逆転すれば“称賛の嵐”
ゲームと同じで、人を興奮させるストーリーには、必ず激しいアップダウンがあります。
超絶に恵まれている人間の”安定した生活”をダラダラと見せられても、面白くもなんともありませんよね。
人は「ビリギャル」的ストーリーが大好きなのです。
すべてに恵まれてしまった人間には、そういったストーリーを生み出すことは不可能です。(もし生み出したければ、一旦どん底まで転落する必要があります。)
そして、何かを苦労して成し遂げた時の達成感を味わうこともできません。
大きな達成感を味わえない、というのは虚しい人生だと思いませんか?
「みんな別々のゲームをプレイしている」という考え方
先にも述べましたが、生まれる環境や持って生まれた才能は選べません。人それぞれ違います。
人はその不公平さを嘆き「人生運ゲー説」を唱えるようになるわけですが、私の場合、ちょっと違う考え方をしてます。
そもそも、人生が不公平だと感じるのはなぜなのか?
それは、
「みんなが同じ一つのゲームの中に存在してる」と捉えているからです。
つまり、同一のゲーム内において、最初からレベル99の人がいたり、反対にレベル1の人がいたりいする、みたいに考えているということです。
でもそれは本当でしょうか?
私はそうは捉えていません。
私の場合、実はみんな同じ空間にいるように見えて「それぞれ全く別のゲームでプレイしている」と考えています。
「人生は運ゲーだ」と感じるのは、周りの人間全員が同じゲーム内で競っていると考えているからなのです。
異なるスポーツ同士で点数を競うかのうような無意味さ
例えば、ボクサーが周りの人間もみんな自分と同じようにボクサーだと勘違いして、「おいおい勘弁してくれよ。蹴ったり関節決めたりしたらあかんでしょw」と総合格闘家に対して文句を言っていたらどうでしょうか。
そもそもボクシングと総合ではルールが違いますから「は?なに言ってんの?」という話ですよね。
また、サッカー選手がバスケの選手を見て、「くそ、、あいつは一試合で40点も取ったのに、俺はたったの2点か、、」と凹んでいたら?
「いやいや、何言ってんの!2点でも十分すごいっしょ!」となりますよね。
ルールの全く違うゲームをプレイしている相手と比較して落ち込んだり、嫉妬したり、文句を言ったりするのは、そもそもおかしいと思いませんか?
しかし、我々は人生においてそういう馬鹿げたことを平気でやって、勝手に苦しんでいるのです。
自分が遊ぶゲームのプレイヤーは自分だけ
ではもし、「ゲームのプレイヤーは自分だけ」と考えたらどうでしょう。
サッカー選手がバスケの選手に対して非難したり、点数を競ったりはしないように、あなたも他人に対してとやかく言ったり、比較したりということがなくなります。
容姿端麗の才能あふれる大金持ちに出会っても、「自分は自分、その人はその人」と考えることさえできてしまうのです。
生まれた瞬間、みんな別々の違うゲームが与えられる
ある者は、
とんでもない才能を持って生まれ、人々から称賛され、それでも天狗にならずに謙虚でいられるかを試されるゲームを。
またある者は、
容姿端麗でちやほやされまくりの反面、人々の妬み嫉みとも戦い、日々劣化していく肉体に抗おうと頑張るゲームを。
またある者は、
家がビンボー過ぎてとても不幸な幼少期を送り、その悔しさをバネに大人になって世間を見返そうと奮闘するゲームを。
みんなそれぞれが別々のゲームを生まれた時に与えられます。
ですから、あなたはあなた自身のゲームに集中していればいいのです。
異なる競技のトッププロ同士がお互いをリスペクトしているのと同じように、どんなに恵まれた人に出会ったとして、自分と比較するのではなく、シンプルに相手に敬意を表せばいいだけなのです。
人生が運ゲーがどうかを決定付ける2つの思考|自責と他責
さて、ここからは自分の”ゲーム内”における「運」に関するお話です。
先に述べました通り、自分にどんなゲームが与えられるかは選べません。そういう意味での「運」はコントールすることができません。
しかし、その”ゲーム内”における「運」は、自分次第でいくらでもコントロール可能です。
この世には”因果の法則”と呼ばれるものがあります。
簡単に言えば、「物事には必ず原因がある」というものです。わたしはこの考え方が大好きですし、まぎれもない事実だと思っています。
例えば、いつもニコニコしていて話しかけやすい雰囲気でいるのと、いつもしかめっ面をしているのとを比較したら、どっちが多くの良いチャンスが舞い込んでくるでしょうか。
言うまでもなく、後者ですね。
つまり、生まれながらに絶対笑顔を作れない、という人を除けば、すべて自分次第ということになります。
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国のせい、会社のせい、上司のせい、は自分のせい
今の時代、個人の選択の幅は非常に広いです。どの国に住むのかもある程度自由に選べます。働く会社もゴマンとあります。
「すべての結果の原因はすべて自分にある」という”自責思考”を持てば、誰かのせいにすることはなくなります。
国が悪いと言うのなら海外に住めばいいですし、会社が上司が、というのなら他の会社に行くか、起業してしまえば良い。
旦那や嫁がどうのこうの言うのなら、別れればいいだけです。
生まれた国は別として、会社やパートナーなんてものは、そもそも自分で選んだわけですから、そこに問題があるのならばそれは完全に自分のせいなのです。
それが自責思考です。
反対に、”他責思考”とは、その真逆の考え方ですから、すべての責任を他者になすりつけます。
自分が選択した結果悪いことが起きたとしても、それは相手のせい、誰かのせいと考えるのです。というか、もしかしたら自分で選んだとも思っていないかもしれません。
国が悪くて、時代が悪くて、景気が悪くて、、、と、そんな風に考えてしまうのです。
常識を破壊することで人生が変わるケース【実体験】
大した話ではありませんが、私の体験をここで話します。
私は今でこそ自責思考になっていますが、20代前半あたりまでは、普通に他責思考だったと思います。
わたしはもともと非常に体力がなく、疲れやすい人間でした。いつも頭痛に襲われていましたし。
小中高時代、周りの友達と比較して、異常に疲れやすく元気がない自分に、いつも不甲斐なさを感じ、同時に不公平さを強く感じていたのです。
例えば友達の家でみんなでお泊り会、なんて時にも、わたしは真っ先に疲れて寝てしまうタイプでした。
「なんでみんなあんなに楽しそうにBBQとかしたり、夜ふかししたり、余裕で元気に遊んでいられるんだろう」
いつもそう感じていました。
食事法に目覚め、常識を破壊し、すべてが変わる
20代になっても、その体質は変わりませんでした。
相変わらず疲れやすく、街に出て買い物に行けば、数時間もすると頭がぼーっとしてきます。
もはや買い物を楽しむ気力もなく、ぐったりして家路につく。いつもそんな感じでした。
そしてある日わたしは「少しでもその状態を改善できないか」と思い、健康についての情報収集を始めました。
もちろん最初からうまくいったわけではありませんが、ある時「一つの常識」を壊すことによってブレイクスルーが起きます。
それは
「毎日きっちり3食食べること」
それを疑ったことなど人生において一度もありませんでしたが、1日2食健康法とか、1日1快食というものに出会ったことによって、すべてが変わったのです。
それは、簡単に言えば「現代人は食い過ぎだから、食べる量を減らしなさい、」というシンプルな健康法です。
別に、難しい理論などありません。
しかしそれが、私にとって人生を180度変えるくらいの、大きな分岐点となったのです。
あたらしい食事法によってタフで明るい人間に
自分に合った食事のスタイルを身につけたわたしは、やがて、全く別人のようになります。
疲れやすかったのが、逆に人から「タフだね~」と言われるようになったり、自分から人に話しかけることなど絶対になかった私が、平気で他人に話しかけるようになったり。
当然、それによって明らかに人生は好転しましたし、チャンスにも恵まれるようになりました。
これも、まさに因果の法則です。
自分の持って生まれた肉体や体質を根本的には変えられないけど、自分を疲れやすく内向的にしていた”原因”である、「1日3食たっぷり」という食事のスタイルを変えたことによって、”結果”的に人生が大きく変わる。
これが、因果の法則。原因が変われば、結果も変わるということです。
先にもお伝えしました通り、人はそれぞれ違うゲームで遊んでいるわけですから、他人にとっての常識が自分にも当てはまるかというと、全くそんな事はないということです。
むしろ、違うゲームのルールを無理やり自分のゲームに適応させようとすることによって、様々な弊害が生じるのです。
まとめ|結局は各々勝手に生きればいい
気付いたら、色々ぐだぐだと語ってしまいましたが、最終的には、人それぞれ「勝手に生きればいいのでは?」というのが私の考え方です。
「人生は運ゲーだ!くそ!」というマイナスな気持ちで”他責思考”で生きて行くゲームで遊んでいたいのであれば、そうすればいいだけです。
逆に、「おれは全然恵まれない環境で育ったけど、こっから逆転させてやるから見とけ!すべて俺次第だ。面白くなってきたぜ~」というゲームを楽しんでいきたい人はそうすればいいでしょう。
ラッキーな事に、われわれの人生ゲームは、その設定やルールを途中からでもある程度変更できます。
もし、「ちょっとこれまでのゲームには飽きてきたな」という方は、少し設定を変えて遊んでみてはいかかでしょうか。
最後までお読みいただきましてありがとうございました。